紅茶の国的トルコな生活。

紅茶の国の800年くらい歴史ある大学で1年間訪問研究者として生活してます。日本での勤務先はとんこつラーメンの国にあり、トルコなことやってる教育研究職なヒトのブログ。

  • BJKさん(id:BJK)とこのコメント欄のやりとりをみながら、そういえば、日本から某国(具体的にトルコだけをさしてるわけではなくて、日本人からするとまだまだ「遅れている」とか「貧しい」とかみなされがちな国、人類学者が行きそうな国(違))に行って、そこに関心を持つようになった人たちの言説をみるに、「貧しいけど、目が、顔が輝いていて元気に生きている彼ら(対照的に金はあるけど生気のない日本人)」みたいなのが多いな〜みたいなことをつらつらと思ったり。。(コメントのやりとりとは直接関係ないね。)
  • そういう見方って、自分たちにはない「何か」を、その某国と某国の人たちに見出そうとしてるってみることができるわけなんだけど、その「何か」って実はその某国の人たちが必ずしも持ってるわけではないというか。実際のところ、その某国の人がその「何か」持ってるようが持ってなかろうが、そこが本質的な問題ではないといったらいいのか。「何か」というのは、自分たち自身のなかにある「関心・欲求」なわけだけど、「某国の人たち」って鏡みたいなもので、その鏡のなかに映った「(自分たちの)関心、欲求」を見てるってことなんではないかとか…
    • しかし、これってまるっきりHerzfeld(1987)の議論*1なので、お釈迦様の手のひらの上で踊るサルになった気分になってしまうわけです。

*1:もちっと正確にいえば、ヨーロッパ人類学への批判という感じ。